オペラ「コジ・ファン・トゥッテ」雑考



その1【グリエルモの沈黙】

「コジ・ファン・トゥッテ」1〜2番の間のセッコはグリエルモの言葉から始まる。

「さあ、抜きたまえ!相手はどちらがいいか選ぶがいい!」

しかしこの言葉を軽くドン・アルフォンソに受け流された後、
グリエルモは完全に沈黙し、
ここからはアルフォンソとフェッランドの二人だけの会話になる。
結局グリエルモが次に言葉を発するのは、
このセッコの最後:フェッランドと声を合わせて恋人たちを肯定するところだけだ。

この沈黙でグリエルモの性格は決定付けられる。


2幕フィナーレで謎の男に扮して不貞な姉妹たちと(偽の)結婚の杯を交わすシーン。
他の3人が美しいフーガを奏でる中、グリエルモは輪からはずれて恋人の悪態を毒づく。
彼はとてもクールでまっすぐな人間なのだ。

この物語の中で、グリエルモは2度、彼のキャラクターを印象付けるキーワードを発する。

1度目は2〜3番の間のセッコ。
"Da soldati d'onore."

2度目は23番Duettoの前。
"l'onor di soldato."

まったく同じ言葉を2度・・・「軍人の名誉」という言葉。
ドン・アルフォンソとの賭けは軍人の名誉にかけて行われるし、
軍人としてこの賭けにおける『上官』であるアルフォンソの指令に従う為、
友人の恋人であるドラベルラを口説くのであった。
(※決して彼は遊び人ではない)

グリエルモは何よりもこの「軍人の名誉」を重んじている人間だ。
だからアルフォンソの、人の名誉を傷つける言葉や、
芝居とはいえ平気な顔で偽の結婚式で杯を交わすことが許せなかった。
故に最初のセッコでアルフォンソに対して口火を切るのはグリエルモな訳だが、
しかしこれは「軍人としての儀礼」を重んじて、
飽くまで『怒りを押さえこんで』決闘を申し込むのだ。
だからそれを軽く断られたグリエルモは、やはり『怒りを押さえて』沈黙するのである。
飽くまで彼はクールに(はらわたは煮えくり返っているが)、
紳士的にこの第一声を発しなければならないのだ。

それは音楽的にもちゃんと表されている。
"Fuor la spada."
「さぁ抜きたまえ」
この言葉にあてられた音は…
D-durの【属音→主音→属音】実に儀礼的な音型だ。続いて…

"Scegliete qual di noi piu vi piace."
「(相手は)私たちのどちらでも好きな方を選べ。」
まずはこの二つのフレーズ中に「!」が書かれていないことに注目。
さらに語尾はこのフレーズ中一番低い音(G-durの主音)に収められている。
最初は激しく、緩やかに下行・・・
冷静にフレーズを終えるのだ。
(※これをさらにアルフォンソは自分の調であるC-durへ引き戻す)
もし、あの言葉が怒り乱れた心理状態だとしたら・・・僕なら違う音で作曲する。

この最初の一言で決まる。
この部分が有機的に、きちんと演じられれば、
この後2時間半の長大なこの物語を一つの流れで演じきることができる。
それほど大事な言葉なのだ。


その2【命名】

オペラの役作りをするときにはまず役名を見ます。
役名には必ず作者(原作を持たない作品の場合に限る)の意図が含まれています。
例えば「ドン・ジョヴァンニ」のキャラクターには、
それぞれ数字とタロットの内容があてられています。

では「コジ・ファン・トゥッテ」ではどうなるか・・・。
この作品はもっと単純で、特に女性陣の名前にはそれぞれ意味があります。

【フィオルディリージ】
Fior-di-ligi:(fior=)「花」、(di=)「〜の」、(ligio=)「忠誠を誓った、献身的な」
※「忠誠・献身の花」・・・姉であるフィオルディリージは妹に比べ、
 最後まで恋人への愛を貫こうとする。
 最終的には恋人(グリエルモ)の友人フェッランドが扮装した男の情熱的な告白に陥落してしまうが、
 それまでの彼女はまるでバロックオペラのヒロインのように、
 貞操を貫く強靭な心を持った女性である。
 最初のアリア「岩のように」はまさにバロックオペラのオマージュのように技巧的だ。

【ドラベッラ】
Dora-bella:(dorato=)「金メッキの」、(bella=)「美しい」
※「美しい金メッキ」・・・頑なな姉に比べて、とっても柔軟な妹。
 戦地へ行く恋人を見送った直後に現れた謎の外国人男性二人に、
 早くも興味津々の妹ドラベッラ。
 その美しさは金メッキのようだ・・・。
 内面はバロック的(神話的)な美しさとは裏腹に、取るに足らないものであるということなのか?

【デスピーナ】
De-spina:(de=)接頭語「低下」「否定」、(spina=)「とげ」
※「鋭さを持たないトゲ」・・・姉妹の召使いである女中デスピーナ。
 本当の恋人たちへの貞節を重んじるあまり、新しい恋に消極的な姉妹に、
 恋の手ほどきをする世話焼きな彼女。
 一見頼りになる器用な人物だが、
 結局彼女もドン・アルフォンソに騙されて、男たちの賭け事に巻き込まれているだけだ。
 トゲを持っていそうだが、そのトゲも人を刺すほどの鋭さはなさそうだ。

【フェッランド】
Ferrando:(ferrare=)「鉄具をつける」
※自分のことを「岩(=scoglio)」と例えたフィオルディリージと、
 同じ鉱物である「鉄」をまとうフェッランド・・・。
 この二人が惹かれあうのは必然のことだったということか?

【グリエルモ】
Guglielmo:「ウィルヘルム2世」
※シチリア王国ノルマン朝の名君ウィルヘルム2世(フランス語ではギョーム2世)がモデル・・・
 というのは少し考えすぎなのかもしれないが、
 少なくとも高貴な人物であるイメージはあるかもしれない。

【ドン・アルフォンソ】
Don Alfonso:人物名
※ドン(Don)は貴族や聖職者の敬称。アルフォンソの名はスペイン系の名。
 歴史上にはシチリアやナポリ、スペインの王に同名の人物がいるが、
 それと今作に関連性があるとは思えない。


その3【劇中劇】

これまで様々な「コシ・ファン・トゥッテ」公演を観てきましたが、
ずーっと抱き続けてきた違和感がある。

アルフォンソに仕込まれたとはいえ、
若い士官たちはなぜ賭けに負けるような結果に自らを陥れたのか?


第二幕でグリエルモはドラベッラを見事に口説き落とす。
結果、女たちは他の男にはなびかない!と賭けた彼らは半分負けたことになる。
さらに一度はフィオルディリージに逃げられてしまったフェッランドは、
自分の本当の恋人が不貞であったことを思い知らせれると、
再びフィオルディリージに猛烈アタック(←古い表現だな・・・)。
結局、フィオルディリージもグリエルモを裏切って、フェッランドに落ちてしまう。
これで二人は賭けに破れてアルフォンソに大金を払わなければならなくなる。

良く言われる説は…
「青年たちは芝居をしている内にだんだん本気になってしまった」
というもの。
いやいや…それはない。
一幕の幕切れでは彼らは恋人たちの様子が少しずつ変化していることに気付いている。
とっても冷静に彼女らの様子を心配しているのだ。

だいたい、このオペラは男たちのマヌケさを描いた作品であるのならわかるが、
タイトルは「Cosi fan tutte」(=女たちはこんなもの)だ。
しかもおバカな若者たち…という内容では、
ドラマとしてはあまりにも軽薄だ(実際にこの作品はそういうレッテルを貼られている)。
そこで僕は次のように考える。


二幕はデスピーナによる「浮気の手引き」と、姉妹たちの告白で始まる。
その後、男たちが現れると、姉妹たちの様子が一幕とは一変している。
動揺するフェッランドとグリエルモ。
彼らが賭けに勝つためには、女たちとの偽りの恋に敗れなければならない。
彼らはアルフォンソとの約束もあるし、一度始めてしまった芝居。
相手がその芝居に本気でのってきてしまった以上、引くに引けない状況になる。
それでも決して本当に口説き落としてはいけない。

【芝居は続けなければならない…だけどその芝居が成立してはいけない】
↑これこそがこのドラマ上の葛藤であり、自己矛盾なのである。

グリエルモもフェランドも本気で口説いている訳ではなかった。
(だって、誰が見てもあんなクサ過ぎる、バカバカしい口説き文句はない)
ところがもはや恋心が燃え上がってしまっている姉妹たちは、
こんなおバカな口説き文句にまんまと乗っかってきてしまう。
困るグリエルモ、迫るドラベッラ…結局グリエルモは意に反してドラベッラを落としてしまう。

フェッランドも最初は真面目に口説いてはいなかったが、
恋人ドラベッラの不実に怒り、その復讐心でフィオルディリージを落としてしまう。
若者二人はまんまとアルフォンソの術中にはまり、賭けに負けてしまう。
それどころか、自らの自己矛盾と恋人たちの不貞というダブルパンチに打ちひしがれる。
さらに全てを明るみにしたことで、男女若者4人はフィナーレで「傷だらけ」になる。
その傷を縫い止め、最後に明るい光を差し込むのはアルフォンソの最後の言葉である。

「私がすべて悪かった。しかしこれで皆、賢くなれたではないか。
 さぁ手を取り合い、抱き合い、笑い合おう。」


この言葉で皆は仲直りする。
男たちは交換した相手を本気で好きになった訳ではない。
成り行き上、そういうことになってしまっただけだ。
だからこそ四人は元に戻ることができる。
もしあの口説きが本気だったとしたら、
たまに見られる変な演出のように…元のカップルに戻ったフリをして、
実は心の中では別々の相手とつながっている…という何とも苦いエンディングになる。
そんなエンディングを喜ぶのは、下品だ。
モーツァルトはお下品な性癖だったらしいし、破天荒な人物像が思い描かれるが、
その作品はどれも上質でリアルだ。
「ドン・ジョヴァンニ」と「魔笛」の間に書かれた「コシ・ファン・トゥッテ」。
前後の作品との関係を見れば、
このエンディングが形而上学的な性格を持つものであることは明らかだ。


この作品は【劇中劇】
どこからが劇でどこからが真実なのか?
そこをぼかしてしまう演出が多いが、その一線をしっかり引くことでこの作品の真意は導かれる。



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